はじめに
「うちは長く通ってくれている患者が多いんです」
その言葉に、私はいつも疑問を感じます。「その根拠は何だろうか?」と。
クレームが来ていないから。患者アンケートの評価が悪くないから。患者からのクレーム報告がスタッフからないから。そういう答えが返ってくることが多いのですが、これらはいずれも「患者が満足している証拠」にはなりません。患者が不満を感じたとき、その不満を直接医院に伝える人は、ほんのわずかです。大半の患者は何も言わずに、静かに来院しなくなります。実際に患者の離脱率を調べた歯科医院では驚くほど多くの患者が来院しなくなっていました。
このシリーズでは、患者が逃げ出す医院と患者が集まる医院の違いを、現場で見てきた事実をもとに掘り下げていきます。第①回は、「患者はなぜ黙って去るのか」という問いから始めます。
サイレントクレーマーの多さを、院長は知っているか
消費者行動の研究では、不満を持った顧客のうち実際にクレームを申し出るのは全体の数パーセントに過ぎないとされています。残りの大多数は何も言わずにその店やサービスから離れていきます。これは歯科医院でも同様です。
患者が不満を直接伝えないのには理由があります。歯科医院という場所は、患者にとって「立場が弱い」場所です。痛みや不安を抱えて来院し、専門知識では圧倒的に院長・スタッフが上です。そういう関係性の中で、「説明がわからなかった」「もっと丁寧に対応してほしかった」という不満を口に出せる患者は多くありません。
不満を言えない患者はどうするか。次回の予約を入れても来院しない。リコールの連絡が来ても返答しない。そしてある日、他の医院に転院する。医院側からすれば「最近あの患者来なくなったな」という認識で終わります。なぜ来なくなったのかを追う仕組みがなければ、サイレントクレーマーの存在は永遠に見えません。
また、「スタッフは患者のプチクレームを丸め込む」という事実をご存じでしょうか?スタッフは患者の質問にちゃんと答えているのですが、実は患者はスタッフの説明に納得していないことがあるのです。診療を見学していると、患者が説明に納得していない表情をするシーンに出会うのですが、スタッフは「患者は納得したので問題は発生していない」と感じてプチクレームは見える化されないのです。
先生の医院では、一定期間来院がなくなった患者の数と理由を、データとして把握していますか?
気づけない理由は「説明の一方通行」にある
私がクライアント医院の診療を見学するとき、必ず観察することがあります。院長やスタッフが説明をしているとき、患者がどんな表情をしているか、どんな仕草をしているか、どんな言葉を返しているかです。
診療の現場で気になるのは、説明が一方通行になっている場面です。パノラマ写真を指差しながら治療方法を説明するドクター。資料を見せながら口腔ケアの方法を伝える歯科衛生士。説明の内容自体は正確で丁寧かもしれません。しかし患者の顔を見ていない。患者の反応を確認していない。
そういう場面で私が患者の表情を見ると、説明を理解できていない様子がはっきりわかることがあります。しかしドクターはそれに気づいていない。説明を終えて「何かご質問はありますか?」と聞くと、患者は「いえ、大丈夫です」と答えます。その患者が次回の予約を守って来院するかどうか、私にはおおよその見当がつきます。
なぜ患者の心理に気づけないのか。院長もスタッフも、次の患者を時間通りに案内することに意識が向いているからです。オンタイムで診療を回すことは重要です。しかしそれが優先されすぎると、目の前の患者と向き合う時間と意識が削られていきます。説明は「した」が、患者には「届いていない」。この乖離が、サイレントクレーマーを生む土壌になっています。
患者には「ステージ」がある
ここで一度立ち止まって、患者という存在をもう少し丁寧に見てみましょう。
「なぜあの患者は治療の途中でこなくなるのか」「なぜ丁寧に説明してもわかってもらえないのか」という悩みを持つ院長は多いのですが、その問いの前提として、患者には「ステージ」があるという認識が必要です。
アメリカの心理学者アブラハム・マズローが提唱した欲求5段階説をご存知の方は多いと思います。人間の欲求は、生理的欲求・安全欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求という階層で構成されており、下位の欲求が満たされることで上位の欲求に向かうとされています。
この枠組みを歯科医療に当てはめると、見えてくるものがあります。日々の生活費に追われている患者と、健康を自己投資として捉えている患者とでは、「歯科治療」に対して感じる価値がまったく異なります。前者にとって歯科治療は「痛いときに仕方なく行くもの」であり、後者にとっては「長期的な健康管理の一部」です。
実際には収入が少なくても健康観が高い人は、お金をかけずにできる範囲で健康に気をつける。一方で、経済的に豊かでも健康への関心が低い人もいます。患者のステージを決めるのは、収入だけではありません。その人が今どのような価値観の段階にいるか、です。
この視点を持つことで、「なぜあの患者はこなくなるのか」という問いへの答えが変わります。医院の対応だけが悪かったのではなく、その患者のステージの現段階によって歯科治療の重要度は変わるのです。
「どんな患者を大切にしたいか」という問い
患者にステージがあるとして、先生に向き合ってほしい問いがあります。「先生の医院は、どんな患者を大切にしたいですか?」という問いです。
これは患者を選別することを勧めているのではありません。医療者として、すべての患者に誠実に向き合うことは大前提です。しかし、院長の理念の実現と経営の両輪を回すという観点からは、「患者を公平に扱う」という考え方もあっていいと私は思っています。
無断キャンセルを繰り返す、治療が痛みの解消だけで終わると来なくなる、何度説明しても生活習慣が変わらない。そういった患者への対応に、院長とスタッフが多くのエネルギーを使い続けると、疲弊します。その疲弊は、継続管理に意欲的な患者の予約枠を奪い、サービスの質を下げることにもつながります。
「それでも歯の健康の大切さを伝え続けたい」という院長の姿勢は、医療者として尊いものです。しかし同時に、健康への意識が高く、医院の提供する価値を受け取ってくれる患者層との関係を深めることが、提供する歯科治療の質を高め、経営を安定させる道でもあります。
あと、患者には変わるタイミングというものがあります。大きな病気を経験したとき、家族の健康問題に直面したとき、年齢を重ねて身体の変化を感じたとき。そのタイミングで患者は今までの自分の人生を振り返るのです。そのタイミグで出会う歯科医院の院長やスタッフの言葉が、患者のステージを一段上げることがあります。だからこそ、患者との継続的な関わりが意味を持ちます。ただし、そのタイミングが来るまでは、院長とスタッフの言葉が届かないこともある。それもまた現実です。
まとめ
患者は何も言わずに去っていきます。その事実から目を背けず、「なぜ去るのか」を構造として理解することが、医院の質を高める第一歩です。
説明を「した」と「届いた」は違います。患者の表情と仕草を見ながら、目の前の一人と真剣に向き合う時間を作れているかどうか。そこに、患者が「この医院に通い続けたい」と感じるかどうかの分岐点があります。
次回、シリーズ2では、実際に患者が「この医院はもう来たくない」と感じる診療室の中の場面を、具体的な事例とともに掘り下げます。先生にも思い当たる場面があるかもしれません。ぜひ続けてお読みください。
先生の医院のこれからを、心から応援しています。
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